五郎と天神様


 五郎は長者様の五番目の男の子で、4人の兄のものでたくましい若者に育っていった。上の兄には狩を、下の兄には漁を教えてもらい、こちらでは書を習い、あちらでは馬を御するという具合であった。五郎は何にしても器用で、要領が良かったため、元服の頃には、近所の若者達7、8人が五郎を慕うようになっていた。

 この頃、父の命令で京の都へ登ることになった。五郎の主人筋にあたる藤原家の警備で、大きな役目を受けたからである。父の許しで、いつも付き従ってくれた若者達を連れて、京へ登ったのは雪が緩み始めた早春であった。道中で見た敦賀の海は穏やかだった。余呉の湖は澄んで青く、桜もきれいだった。近江の湖はさすがに大きかったし、土地の白さにも驚いた。
 五郎たちの仕事は、主人に仕えながら、皇居へのお供をしたり、屋敷の番であった。夏の日盛り、晩秋の木枯らし、冬の霧霜とそれは、大変な仕事であった。都に登ってからは、「親兄弟の名を汚すまい。生江の名誉に恥じるまい」と連れ立ったみんなが、力を合わせて励みがんばった。

 篠尾から連れ立った若人衆に支えられ、助けられているうちに、2年、3年が過ぎていった。しかし、耐えがたい苦痛もあった。主人筋の公家達に獣呼ばわりされたり、虫けら扱いをされた。越前の熊とか、生江の猪と呼ばれて悪ふざけをされることであった。連れて来た若人衆を「弱虫」だの「あのオケラは好かん」と言われると、腸がよじれるほどつらかった。
 その頃、都に疱瘡(ほうそう)が流行り始めた。藤原家のご一門にも高熱を発して寝つくものや死ぬ者が続出した。主人筋のご家内でも殿様も麿様も様子がおかしくなった。

 そうした時、天神様の怨霊を見たと言ううわさが広がった。「ご当家のご先祖様が菅原道実公につらくあたって、それが原因で菅原家が凋落した。それで、天神様は菅原家ご一門のおごり高ぶりをけん制するために病魔を遣わされた。」ということらしい。
「このままでは当家が滅んでしまう」という心配の渦が広がっていった。
殿様や麿様に代わって、若君と北の方様が北の天満宮に参拝し、除病の祈願をすることになった。お供は五郎と若人衆がすることになった。
「オーイ、生江の猪殿。早よう用意せい」に始まって、あれこれと注文が続き、その間に「越前の熊は力持ちでも、気が利かん」とか「オケラども、何をモジモジしている」とか言われると言われると、怒りが込み上げてきた。「その都度、忍べよ、生江のために」と自らを慰め、若人らに言い聞かせた。

 北野についた。天満宮の社殿は壮麗で厳粛だった。一同参拝の後、一時休憩をとった。
 五郎は若い巫女(みこ)の一人にあった。その巫女から天神様の生前の話を聞いた。若くしては、学問に精励し、天才的な学者であったこと。学問の力を用いて、世の中を救おうと考えた優れた人物であったこと。藤家の身勝手な政治を許さず、良識による賢い政治を目指していたことなど、五郎にとって初めて聞くことばかりであった。耳の栓がとれていくような強い説得力があり、話し方にもよどみがなく、声は抑揚があってしかも流麗だった。

 宿舎に帰ってからも、巫女の清らかで美しい姿を忘れることが出来なくなった。透き通るような声で、理路整然とした話し振りが目耳にしみついた。そらからは、暇を見つけては、ひとりで北野詣でをするようになった。
 その内に、巫女が菅家の末裔であること。優れた学識の持ち主でありながら、無学の者、無位、無官のものにも、分け隔てなく振舞ってくれることなど人格的も素晴らしい巫女であることがわかった。そうするとなおのこと、巫女の面影や姿が五郎の目や胸に焼き付いて離れなくなった。

 ついに、五郎は自分の気持ちを告白せずにはいられなくなった。自分は越前の生江の郷の五郎で、遠い先祖には殿上人もあったこと、地方では名のとおる豪族で富も権力もあることなど、自分の身の上を話し始めた。すると、巫女はそれを察して、自分が天神様に終生仕える覚悟であるを告げ、五郎の熱い思いは受け入れてくれなかった。

 五郎のもとへ、生江の郷から使いの者がやってきた。それは、予期せぬ悪い知らせであった。兄達が流行り病で病死したり、不治の病を患ったこと。年老いた父が五郎の帰りを待ちわびていることなどが、書いてあった。そして、何とか都合をつけて帰国できないものかと母の願がしたためてあった。 五郎は都での侍奉公には未練がなかった。さっそく主人に話をして帰国の許しをもらった。しかし、主人は病気上がりで、しかも長男を病でなくしていたので、帰国する五郎には関心がなく、何年にもわたって奉公してきた五郎には、何のねぎらいも、礼もなかった。

 帰国か決まった五郎は、北野の天満宮に参拝して、巫女を訪ねた。
「五郎殿の上品でまじめな人柄は忘れません。群鶏の中に鶴を見る思いでおりましたものを」と目頭に涙を溜めて、別れを惜しんでくれた。別れ際に「わたくしの身代わりにも」と言って、鏡を五郎に手渡しました。
 篠尾に帰った五郎は、生江氏の総領として近在近郷の豪族や百姓を指導し、周囲から厚く信頼される長者様に成長していった。屋敷には祠(ほこら)を建てて除病と地域文化の発展を祈願して、天神様のお礼を掲げ巫女からの思い出の鏡をまつった。酒生用水や排水の事業にも成功し、収穫も安定して増えていった。天災も少なくなったし、火災や疫病も広がることはなかった。天神様と長者様のご利益を信じるものが、次第に増えていった。

 そうしたある日、五郎のまぶたに焼き付いて離れなかった北野の巫女が、高徳の人と伴に五郎のもとを訪れた。諸国に点在する北野神社、天満宮巡拝の旅の途中であった。思いもかけぬ訪問に、五郎は歓喜して迎えた。天神様の神体として祭られている鏡に、ねんごろな修跋もしてもらった。修験者が神像の彫刻に秀でていると知ると、生江家の家宝として保存されていた香木、白檀の木を取り出して、天神様の彫像を依頼した。修賢者は懸命に腕を振るい、やがて見事な神像が完成した。
 五郎は歓喜し、屋敷の南に堂を建立し奉った。日を期して行った開扉の祭には大勢の参拝者が押しかける中で、巫女が祓い、主祭したという。これが、篠尾の北野神社の縁起である。

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