竜神谷(じゅじゅんだん)

 権太は魚釣りが大好きだった。おっ母に魚釣りに行きたいとせがむと
「権や、お前の気持ちはわかるがや。でも、我慢せいや。おっ父はお前が大きくなって、百姓仕事が上手になった。楽しみないい息子を授かったものじゃって。いつも喜んでんでいるよ。…早よう行って手伝ってくれや。安心するし、ひどう喜ぶでな。」
という具合に、いなされることも多かった。
 
 権太は小さい頃から、魚を獲るのがうまかった。二尺もあろうかという鯉を獲って、みんなを驚かせたこともあった。魚を獲りに行くと、何となく魚の居場所が予想できたし、魚の種類や大きさもわかる気がした。
「おっ母」と、百姓仕事の暇そうなときに声をかけると、それだけで
「魚釣りかァ、権や、おっ父もおっ母もな、お前にはよう立派な百姓になって欲しいにゃ。頼むこっちゃでな、小さい弟や妹もいるこっちゃで、魚釣りのことばっかりせがんでくらんなや」

 なかなか魚獲りに行かせてくれないおっ母に、ある日
「今度の肩休みの日にゃ、魚獲りに行かしてんでの。百姓仕事には今までより、もっとがんばるでの。のーおっ母。」
「そんなに言うなら、仕方ねえわ。ほんでもおっ父には、ちゃんと頼んどけえ。おっ父は生きもんの殺生は好かんのやでな。んまいこと頼めや。」
しぶしぶながらも、許しがおりた。年が大きくなると頼みにくくなるし、魚獲りもこれが最後かなあ。そう思いながら、おっ父にも頼んだ。おっ父は思ったよりわかりが良かった。
「ケガせんなや。気い張らなあかんぞ。晩遅うなんなや。心配なでな。」
嬉しくて、涙が出そうになった。肩休みで、半日だけの魚釣りと思っていたのに、昼っから釣ってていいんか。最後の魚釣りも、こんで大分豪勢になったなあ。おっ父は静かで怖かったが、いつも親切で優しかった。世間では力持ちで仕事上手と評判だった。

 おっ父に頼んでいるとき、弟が聞きつけて「連れて行ってくれ」と、うるさくせがみ始めた。弟や妹を連れて鮎獲りに行ったことがある。わらで堰をして、鮎の群れを追い上げた。数十匹もの鮎が一度に獲れた。この時から、弟も妹も魚獲りについて来るようになった。しかし、連れていけない漁もある。岩魚獲りがそれだ。
 次の片休みには岩魚獲りをしたい。最後になるかもしれない魚獲りだ。弟にも妹にも連れていけないことを説得したが、なかなか聞こうとしなかった。
 そうこうしている間に、片休みの日になった。おっ父やおっ母に、それでも遠慮しながら漁の準備をしていると、弟や妹までが、そわそわと寄り添ってきて手伝おうとした。いつも兄の言い付けを良く聞く、良い弟や妹なればこそ、扱いに手を焼いた。

 いよいよ当日を迎えた。外はまだ真っ暗闇のうちに、そっと床を離れた。弟や妹が目覚めぬように、こっそり家を出た。朝飯や昼の弁当なんてとても用意できなかった。ひとりで岩魚獲りの醍醐味を味わえるならそれでも良かった。薄明かりの中を五位谷川に急いだ。川辺に着いたとき
「おっ父、おっ母。おおきんの。弟、妹。すまなんだの。」
権太は、しばらく手を合わせてたたずんだ。それからは、だたひたすら岩魚獲りを続けた。
あっこのどんど、こっちの滝壷、あの溜めも。瀬も渕も、落ち合いからは片おしに糸を垂れこんだ。が、どうしたことか小魚一匹釣れなかった。こんなことは初めてのことであった。腹がすいてやむなく川辺の岩に座り込んだ。その時はもう、茜がさして、日暮れになっていた。
「とうとう魚の神さんに見放されたんかなあ。変なこともあるもんじゃ。この谷の行き止まりには沼が一つ残っているが、行ってみるかどうしょう。あんな高いところまで魚は上って行けるもんじゃろか。」
魚がいるものかという不安もあったが、空腹と疲れで権太は迷った。
「しかし、糸を垂れるとすればもうそこしかない。お土産がなんにもなしではみんながっかりするし、自分としても格好つかんよ。よーし。もう一頑張りじゃ。」
そう決心すると、疲れた体を引きずるように権太は急坂を登り始めた。途中では腹の皮がよじれそうになった。めまいがして息が止まりそうになった。

 沼に着いたときは、もう暗くなっていた。
「暗うなっては、もうあかんな。魚も餌につかんなあ。」
心配しながら、最後の願いをこの沼にたくした。余力を振り絞って、枯れ枝を集めた。近くの炭焼き小屋から種火を拝借してきた。沼の岸辺で漁り火を焚いて、手元を整えると、また釣りにかかった。
 それからである。何ほどもたたぬうちに、物凄いあたりを感じた。「釣れた、釣れた」と体中の血が、一気に騒ぎ始めた。「してやったり。苦労の甲斐があったぞ。」岩魚の白く光る腹が見えた。釣り上げてみると、鮭か鱒かと思うほど大きなものだった。
「うわー。こんないけーの初めてじゃー。」
聞き手もない沼にこだまするほどの声じゃった。権太の体から元気が湧き上がった。釣りつづけた。また釣れた。前ほど大きくなかった。が、また釣れた。釣りつづけているうちに4匹になった。
「最初釣れたのは、「おっ父の土産にいいな。次にいけーのはおっ母で、その次は…」
と目で追いながら独り言をしているとき、また、アタリがきた。一回目よりも大きなアタリであった。釣り上げると尺五寸はあるヤマメであった。
「わあっ。これがおっ父のお土産やぁ」
と立ちあがったときである。空腹と疲れとで、めまいがして倒れてしまった。
「お土産はみんなにできたんにゃで、一匹は自分のもんじゃ」
そんな考えが頭をよぎると、矢も盾もたまらず一番小さい岩魚を炭火に乗せた。焦げる匂いにも耐えられず思わず岩魚を口にした。
「こんなうまいもん、食うたことなかった。もう一匹食おう。お土産が足らんでも、分ければ良いことじゃ。」
この二匹目を食い終わったとき、権太は猛烈なのどの渇きを覚えた。たまらず沼に入って水を飲んだ。沼の水はうまかった。飲んでも飲んでも、飽きずに飲みつづけた。飲みながら、水の中に大きな竜を見た。いや、水に映っている竜を見た。権太は驚いて立ちあがった。そして、その時自分が竜になってしまったこと。水に映ったのは、紛れもなく自分であることを自覚した。

 権太は頭の中が真っ白になっていた。この姿では村にも家にも帰ることはできん。おっ父やおっ母が自分を探し、そして悲しみ、弟や妹がおろおろする姿を思い浮かべた。権太は泣く泣く沼に沈んで、沼の主になった。村では権太が神隠しにあったと噂になった。
 年の暮れが近づいて、山祭りの頃は、雷鳴り、山鳴りがする。竜神谷の竜が、悲しみに耐えられず、泣き悲しむ声だと言う。

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