世恒様の米袋

 その昔、篠尾には左近長者と呼ばれる大きな家があった。この家の名前は生江氏といい、この地域一帯に大きな勢力を持っていた。その頃は、足羽川も生江川と呼ばれ、人はゆうに及ばず、草木も、けものも、長者になびかぬものはなかったという。

 この長者に、玉のような男の子が生まれた。そして、日に日に大きくなって、やがて世恒様と名づけられた。世恒様は幼い頃から学問に励み、人並み優れて賢く、しかも村の人たちにも優しい若者に成長していった。長者の家には、遠く新羅の国から渡ってきた朝鮮の人や僧侶、そして、優れた技をもった職人が大勢働いていた。世恒様はこうした人達にも好かれ、尊敬されるようになっていった。またこの頃、髪を切って坊主になり、日夜仏教の学問と修行に励んで、仏様への信仰も深めていった。
 世恒様を見ていると、それだけで村人の心から迷いが消えて、行く手にすがすがしい明かりが感じられるようになっていった。長者屋敷の一角には、お堂があって仏様が祭られていたが、世恒様が毎朝毎晩お参りをしていることが伝わると、多くの人々が世恒様にあやかってお参りをするようになった。

 そんなある日のこと、お堂の中には一斗ほどの米が入った麻袋が置かれていた。それに気付かれた世恒様は、半分ほど小分けをして仏様にお供えになった。お参りが済むと、お参りに来た村人にお供えの米を配られた。このことがあってからは、毎朝毎晩、お供え米が分配される慣わしとなり、ますます大勢の者が参列するようになった。しかし、不思議なことに、麻袋の米はいつのまにか一斗ほどの米に戻っていて、朝夕のお参りに事欠くことがなかった。

 幾年か経ったある年、干ばつになった。梅雨の時期になっても毎日毎日、日照り続きで、その上乾いた大風まで吹いた。夏が過ぎると、今度は雨が続いた。大水で家ごと流される者も多かった。食べるものもなく、着る物もなく、住むにも家がない人が大勢出た。世恒様の仏参りのお下がりに有り付こうとする乞食が増えた。世恒様は仏参りを続けながら、誰彼と分け隔てなく皆にお供え米を分配した。それでも袋の米はなくなることはなかった。

 世恒様のお堂にある米袋の話は、国中に広がった。取り出しても取り出しても米がなくならない米袋の話は、聞くものに不思議がられた。その頃、武生にいた国の造(みやつこ)がこの話を聞くと、世恒様の米袋を取り上げてしまおうと考えた。そして、造は役人や手下どもを大勢つれて、篠尾へ押しかけてきた。

 世恒様のお姿を見た造は、人並み優れて気高い気品に驚き、役人や手下どもに米袋を奪い取らせることが出来なかった。気を取りなおして、ようやく
「そなたの持っている世にも有り難い米袋を、それがしにお譲りいただけまいか。お譲りのときには米百石を差し上げたい」と、自分でも予期せぬ懇願をしてしまった。
 それを聞いた世恒様は
「お召しとあれば、どうぞ」と何のこだわりもなく承知した。造は米袋を馬に積んで帰っていった。
「いまいましや。こんな麻袋に米一斗ばかり。米百石と取りかえる約束までさせられたわ」胸の中の不満が渦巻きになって膨らんだ。造は手下どもに向かって
「百石もの米を、篠尾なんかへ送れるもんか。麻袋を取り上げたからには返しはせんぞ。欲しけりゃ、力ずくでも取りに来てみよ。なあみんな」と叫んだ。

 その時である。今まで元気にしていた馬が、急にへなへなと座りこけ、米の袋に押し潰されそうになった。造がびっくりしていると、麻袋が小さいながらも重々しい声で、
「悪心を起こせば天罰あり。米百石の重みで馬もそなたも押し潰すがよいかな」と宣告した。造は恐れおののいて許しを乞うた。すると、苦しそうにして喘いでいた馬も立ち上がった。
 武生に帰り着いた造は、やむなく米百石を馬五十頭の背中に積んで、篠尾に送った。造は、これでもうこれからは米不足の心配がなくなったと喜んだ。そして、米の無駄使いが始まった。みんなも不思議に思いながら、袋から米を次から次へと取り出した。

 ある日、袋の米が突然に出なくなった。手下どもが袋を逆さにして、棒で叩いた。しかし、空になった袋からは、二度と米は出なかった。手下どもは
「麻袋を逆吊りにして叩いても、米一粒も出なくなった」と報告した。造は腹を立てて逆吊りの麻袋を身に来た。
「このヤクザなドン袋。米を吐くのを忘れたか」といって、棒を持ったとき、
「百石の米で譲り受けた者が、もう存分に米百石を受け取ったではないか。その上で、わたしを逆吊りにして叩くとは、如何なる考えぞ。今またあらためて天罰を受けて見ようとか」と、麻袋の大声が、蔵中に響き渡った。
 造は体が震え、身が縮む感じを受けた。恐れおののいた造は再び許しをこうた。
「麻袋様の仰せに従います。なにとぞお許しを」と。すると、麻袋は言った。
「何事も、因果応報と知れ。そして、わたしを篠尾の世恒様との元へ届けよ」と。

 …

 空の麻袋は再び世恒様の処へ戻ってきた。するとまた、仏様のお供え米を吐き出し始めた。世恒様は、大水や干ばつを避けるために、生江川に堤防を築き、酒生用水を開き、さらに溜め池も掘った。何百人もの百姓や手伝い衆が、世恒様の高徳に従い、日夜を問わず働いたという。そして、仏様のお供え米を頂きながら新しい世の中作りに励んだという。

 番灯(ばんど)の明かりが闇夜を照らし、垂水(たるみ)の沼や往来(ゆっき)の田んぼにもきらきらと反射するように、世恒様の高徳の明かりが人々の心を輝かせたんじゃそうな。

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