稲作が伝わった頃

 やがて、より効率の良い稲作つくりをしようと、足羽川の水を田んぼに水を引く灌漑を行うようになりました。。灌漑をするためには、人々はリーダーを中心に協力をし合い、水利用のための取り決めを作っていきました。次第に、財力と権力をつけてきた人達は、この地区を支配するようになりました。生江氏はこの時代を代表するの豪族で、酒生を始め、広い範囲に力が及んでいました。天神山の西方には屋敷跡の地名が今に残り、奈良の法隆寺にも劣らない五重の塔が篠尾町に建てられたいましたが、それもこの生江氏が関係していたと考えられています。
 天神山を始めとして、篠尾、成願寺の山々には豪族の墓である古墳が300以上見られます。これらの古墳からは剣や刀などの鉄製の武器や、朝鮮半島から伝わった金製の耳飾が発見され、その頃、鉄を作れる技術があったことや、朝鮮までも交流の範囲であったことがわかっています。

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